第34回嶋臺塾を開催しました

 第34回 京のたたずまい

日  時: 平成27年12月1日(火)午後6時~8時
洛中から: 「先斗町らしさを求めて」
       植南 草一郎 氏(すきやきいろは 四代目)
京大から: 「町並み能き様に仕るへく候」
       中嶋 節子 氏(人間・環境学研究科 教授)
司  会:  佐野 亘(地球環境学堂 教授)
協  力:  嶋  臺 (しまだい)

今回は「京のたたずまい」と題し、京都の景観について考えました。最初にご登壇いただいたのは、京都先斗町に大正の頃から店を構えておられる「すきやきいろは」の四代目 楠南草一郎さんで、先斗町の景観づくりについてお話しいただきました。

先斗町は、もともと花街として栄えたところでしたが、その景観をつくってきたお茶屋さんが減って、歩く人も景観も変わってきました。特にバブル期ごろから飲食店が増え始め、最近は、家族連れや外国人観光客が歩き、東京などからの出店も多いようです。そうした中、先斗町らしさが失われることを心配する声があがり、「先斗町まちづくり協議会」が発足しました。この協議会は、京都市の条例に基づいてつくられたもので、新たに出店してくる人と話し合って、先斗町らしさを損なわない店構えをお願いするのが本来の役割です。しかし、出店してくる人と先斗町の人とで「先斗町らしさ」について大分理解が異なる、先斗町の人の間でも多かれ少なかれ違う、、先斗町らしさとは何かについて改めて考えようということで、いろいろな活動が始まったのだそうです。

植南さんは、先斗町での家業とは別に、建築家もやっておられ、大学でも教鞭をとっておられます。このため、協議会では「重宝される」そうで、まちづくりの中心となって活動されています。たとえば、昨年は、先斗町南北600メートルすべての建物の立体図や古地図、絵図を、近くの小学校旧校舎に展示されました。その展示会は、ただ見るだけではなくて、訪れた人が、語ってくれた思い出や誤記等の指摘を全部メモして地図に貼り付けていくなど、参加型の催しとなったのだそうです。さらに、そうした記録は、スマートフォンのアプリを使って、実際の景観と重ね合わせて表示できるようになっているそうです。

古い記憶をよみがえらせながら、新しい技術も取り入れながら、次世代の「先斗町らしさ」を形作っていく。植南さんからは、そうした取り組みについてのお話しでした。

次に、人間・環境学研究科の中嶋節子さんから京町家で形づくられる京都の景観についてお話がありました。町家が描かれた最古の絵画史料「年中行事絵巻」に始まり、さまざまな史料から、町家がどのように生まれ、どのように変遷してきたかを解説いただきました。

そもそも、町家がどのように生まれてきたのかについては、諸説あるようで、大路の一部をを占拠したり、貴族の屋敷の塀や門にとりつく形でできたとか、長屋としてできた、あるいは一戸建てとしてできた等々、いろいろ言われているようです。しかし、最も古い史料に、通り庭や土座なども描かれており、建築様式としては、すでに平安末期に、今の町家と似た形態だったのだそうです。

それが時代を経て、17世紀初頭、商人が非常に力を持っていた時期には、三階楼、二階蔵といった、豪華な町家も現れるわけですが、17世紀半ば以降には、地味になりし、その一方で洗練されていきました。その理由としては、その頃幕府が、庶民の建築に口出しし、規制するようになったことや、建築技術が発達したり、千本格子などの建具や畳、角材などの規格化が進んだというのもあるのですが、中嶋さんによると、それに「町(ちょう)並み」というのもあったと説かれます。

当時は、「町」という強い自治組織ができた頃で、町式目とか町掟、町定めという成文化された町内の法律もできました。その中に、。家をつくるときは町の中で相談すべきだとか、「町並み能き様に仕るへく候こと」という約束もあったようです。すでに、当時の旅行記などを読むと、京都の景観が非常に整然とした町並みという記述もあるそうで、町(ちょうなみ)並みが町(まち)並みをつくったというお話でした。

質疑では、先斗町の電柱・電線を地下に埋めるべきか、かつて、町の取り決めと幕府の指示とでどちらが優先されたのか、その中で、町の人が、何に怯え、何を守ろうとしていたのか、精神的な部分はどうなのかといった、かなり踏み込んだ質問も出され、活発な意見が交わされました。(吉野 章)